ギンザ洋装店、外壁の応急処置とパラレルワールド
東京の銀座で洋装店を営んでいたナルシマさんが、戦争で疎開してきたこの地でも
洋装店を営み、それでこのダーチャ前の坂に‘銀座坂’という愛称がついたという話。
その場所は旧簾舞通行屋前の通りにあった商店街と聞いたけれど、この地図を
見ると教えられた場所にあったのは別な洋装店で、ナルシマさんの洋装店はまんま
この場所だった。しかも‘銀座’はカタカナ表記の‘ギンザ’だった。昭和10年代の
カタカナ表記なんて相当ハイカラだったんじゃない?
で、昭和10年って今から何十年前になるかなぁ?って計算しようと一旦、西暦に
変換するこの作業。こうやってこれまでに何十回、何百回と和暦と西暦を換算
してきた。その間に和暦は昭和、平成、令和と変わり西暦とますますかけ離れて
行く。西暦と和暦、ふたつの時間軸が実しやかにカレンダーに並ぶ世界には、
そりゃ日常的に並行宇宙(パラレルワールド)も存在するだろうって思いたく
なるわけだ。なんてことを思いながら変換した「昭和10年」は西暦にすると
「1935年」だった。今から85年前の物語。
この建物にナルシマのおじいちゃんがいてテレビや応接間があって、ここで紅茶を
ごちそうになったことがあるって覚えていたご年配の人がいた。この建物って、
昔も今も舶来物を好む人の利用頻度が高いらしい。
腐って落ちていた部分をジャッキアップして、しっかりした柱を打ちつけて頂く
これまで、どれだけの人が「とりあえず」という名の応急処置を施してきたか
わからないこの小さな木の建物を、ミイラ取りがミイラになって維持しようと
する自分がいる。ふと、無数のパラレルワールドの中には、もっと早くに補修に
乗り出していた自分や器用にDIYする自分、そもそもここで暮らしていない自分も
いるんだろうなと想像する。もっと微細な、今と何も変わらないようだけれども
誕生日が違う自分、生まれた場所や家族構成が微妙に違う自分とか...。
今、自分と捉えているこの存在はいつも陽炎のようにゆらいでいて、実体がないと
思うとしっくりくるし、整合性がとれていると感じる。
この面には毎年、かなりの量の雪がたまる。もはや再利用もかなわない腐った板を
取り除き、スタイロフォームを入れて新しく防腐剤をぬった板を張って頂いた。
少し前の自分が想像していなかったような美しい光景が目前に広がる。
たぶん人間は、さまざまな場所を歩きまわりいろいろな情報をスキャンして脳内
メモリーにインストールしているんだと思う。目や他の感覚機能で捉えたデータが
蓄積されて、ある一定値に達すると、それに関する事象が、実際(と思っている)
の世界に具現化(ダウンロード)される。今、こうして流れ出てくる言葉も
そうだ。それは映画『マトリックス』の、あの世界そのものを構築するコード
(上から下に落ち続けるデジタル雨)の表現に似ている。その流れ落ちる無数の
文字、記号、配列の中からこの状況や心境に最適と感じる文字列(単語とか
印象深いセンテンスまるごととか)を選択する。イメージにすると、流れ続ける
デジタル雨の中から指で使いたい部分を選んで抜き取る感じに近いかな。それを
パソコンのキーボードでこうして言葉に置き換えていく。
この作業はたぶん、言葉を紡いでいる。視覚と、左の手と右の手と。この両手で
言葉を紡ぐ時、まるで鍵盤楽器を奏でているような錯覚に陥る。すると鋭敏に
なった聴覚がキーボードを打つ時の小気味良いカタカタという音や旧型タイプの
冷蔵庫が出す機械音、山蝉の鳴く声や時折通る車の音などすべてを心地よい
アトモスフィア音楽として感知する。もしかするとこの世界には、キーボードの
「T」や「Y」「_」や「L」などの文字を打つ時の音の微細を聴いている人も
いるんじゃないかな。
この写真を撮った時の自分はもういないし、でもまたいつかふとした時に現れる
かもしれない。どの自分になっても、軸にもどれればいいっていうだけのこと
なんだな、きっと。今日も庭が呼んでいるよ。